ミッドライフ・クライシスを越えて、僕らはやっと大人になれるのか。
溢れる情報にさらされる日々で、なんか大事にしときたいなと思うこと。
いい年になってくると、だんだんと初めてやることが減っていって、
世の中のこともなんでもわかったような気になってくる。
自分のこととか、身の回りで起きることとか、世界のこととか、
大体のことはまあ、いつかのあの感じねという風にどれも対処していく。
茫然自失でおろおろすることなんてほとんどなくなって、
それが大人になっていくことではあるし、
いろんな経験をしてきたということの証でもあるんだろうけれど。
こどもの頃に感じていた得体のしれないものを前にして、
ビビったり、ワクワクしたりするような感情も、
あまり起こることもなくなっていく。
僕がよく読んでいる「はてなブックマーク」なんかを日々眺めていても、
「驚愕」やら「超絶」なんて言葉がたくさん溢れてるけれど、
残念ながら、驚いたり、心からわくわくしたりなんてほとんどない。
まあ、それらのほとんどは、記事に呼び込むための仕掛けのひとつなんだろうけれどね。
大人になればなるほど、面白いことなくなっていくな。
ワクワクすること減っていくな。
そんな感じをなんとなく抱きながら、
毎日の仕事に追われて忙しさの中に身を任せることで、
やりたいことよりも、やらなくちゃならないことを増やして、
日々追われて、疲れて、そこに意味はあるような気にさせて、
実際は退屈しそうな自分をごまかして過ごしたのかもしれない。
というか、今もそういう感じで過ごしてる。
でも、心がちょっとワクワクすることについて、
その上澄みの情報だけを飲んでわかった気になって、
また次のちょっとでもわくわくする情報をぼんやりさまよって探すんじゃなく、
少し手間をかけて深掘りしてみる。
もちろんインターネットを使って情報を集めるのもいいけれど、
少しだけ時間をかけて、本を買いに行ったり、借りに行ったり、
それについて詳しい人の話をどこかに聞きに行ったり。
そうすると、そこには無限の宇宙が広がっていることに気づかされる。
ちょっとワクワクする話の先には、
びっくりするくらいワクワクする話が広がってるんだ。当たり前だけど。
そうすると、そのなんとなくわかっていたようなテーマ、トピックについて、
底さえも窺えないくらい深く続いていたりする。
そして、それについて自分の無知さ加減に絶望的になったりもして。
でも、上澄みをなめてわかりきった気になって、
退屈な気分で生きてるよりは、夢中になれてよっぽっどいい。
流れていく情報にさらされているだけじゃ、
情報に踊らされてるだけになってしまうけれど、
流れていく情報を自分で泳いでいけば、
世界はもっともっと楽しくなるんだなって。
最近、そんなようなことがあって、そんなことを思った。
誰かの感情に僕も揺さぶられてぐったり
普通に楽しく過ごしているのに、誰かのイライラとか、不安とか、怒りとかその辺の感情の突風に吹かれて、気持ちがざわざわして、落ち着かなくなることないだろうか?
僕は残念ながら、たまにあったりする。そして、今日もそんな日だったりする。
僕はただ普通になんとなく楽しく、一生懸命その日を過ごせていければ、それはまあだいたい満足できる。ものすごく楽しくなくてもいい代わりに、ものすごくがっかりしたり、嫌な気分になったりしたくない。
でも、僕のまわりにいる人の気持ちが揺さぶられて、その余波みたいなものが、僕の方にもざざっとやってきて、落ち着かなくさせられたりすると非常に困る。まあ、たいていはそんなに気にしないで過ごしていられるんだけれど、まれに誰かの苛立ちとか、不安とか、その辺が強く降りかかってくることがある。それは、ときどきすごくわかりにくくて、怒りのような顔をしていたり、なんでもないようなメールがたくさん来ることだったり、僕へのアドバイスのようだったり、いろんな顔をしている。でも、その強いコミュニケーションに、ときに平然と過ごしていられなくなる。
別に、苛立ちとか不安とか、悲しみとか怒りとか、誰だって人にシェアするし、僕だってする。人と人が強く繋がっているって感じられるのは、いつだってそういうときだって気がする。でも、感情の過剰なシェアや、誰かの気持ちを強く揺さぶる人たちは何を意図しているんだろうか。それはその人からのヘルプなんだろうか? 僕以外の誰かの場合は、その人を助けてあげたりするんだろうか?
少なくとも、僕の場合はひどく揺さぶられるし、一日、変な後味が残る。そういう人たちとのコミュニケーションが適切なんだろうかとかさえ、思ったりもする。
僕には僕の価値観があって、他人には他人の価値観がある。あたり前のことだ。すべては一致しない。僕の気持ちに共感できる部分を持ってくれる人は世界にいくらかいるだろうけれど、全部は難しい。だから、僕はその日の僕の気持ちに共感できる人に会えると、その日はなんだかうれしい気分になる。
僕の今日のこんな気持ちも全員にわかってもらえるとは思わないし、それをわかってもらえない人に伝え続けたりもしたくない。でも、伝わる人を見つけて、その人と繋がっているなって、気休めかも知れないけれど感じられてうれしい気分になるくらいがちょうどいい。
そんなことを思って、書いたりしていたら、少しだけ気持ちが落ち着いた感じがする。
あそぼう!
大人になると、いろんないいわけが多くなる。
なんで髪型変えたのかとか。なんでそのご飯を食べたのかとか。なんでその人とつきあってるのかとか。とかとか。
人と会うときもそんな気がする。
「おもしろい映画があるからさ」
「行きたいお店があるんだけど」
「相談があるんだけど」
「落ち込んでいるから」
なんか知らない、理由らしい理由を用意して。ほんとうに心に問いかけてみると別にそんなことはさして思っていなかったりしがちで。ただたんに会いたいだけだったり、話したいだけだったり。
なんか、それでいいんじゃないかなと思う。
子供のころはそんな前置きなんて要らずに、いつでもともだちに会って、遊べてた。いい大人になったって、それじゃダメなのかな?
「あそぼう!」