ミッドライフ・クライシスを越えて、僕らはやっと大人になれるのか。

 f:id:tinmanbooks:20150628104549j:image
 
ミッドライフ・クライシス。
そんなやつに、僕はどうやら苛まれているらしい。
 
糸井重里さんも最近「40歳は惑う」という特集を、
AERAといっしょにやっていた。
そして、やっぱりとてもつらい時期だったと語っていた。
 
会社に同年代があまりいなかったり、
同級生と会う機会も減っていたりするなかで、
そこへの対処みたいなものを、
なかなかうまくつかめずにいた。
 
無限のようにさえ感じていた人生の残り時間も、
折り返し地点を迎えたことで、
なんとなく実感値として感じられるようになって、
限られた時間の中で、まだまだやりたこと、
やっておきたいこともたくさんあって。
 
それでも、ひとりの大人として、社会人として、
まっとうしなければならない役割と責任みたいなものが、
大きく課せられている。
 
そして、それにたくさんの自分の時間と自分のお金が、
費やされていく。
 
もう少し若い頃は、
自分で稼いだお金と自分自身の時間は、
自分のためだけに使うのが当然だった。
 
言い方が少し悪いけれど、
それが、自分ではない人(家族とかいろいろ)のために、
当然のよう費やされていく。
 
そこに、なかなか慣れずにいるのかもしれない。
 
これまでこの世に生を受けてきた、
星の数ほどの人たちががほぼすべて感じてきたであろう、
この新たなライフステージにおける戸惑い。
 
まったくもって、珍しいものでもなんでもないんだけれど、
それでも、僕にとっては初めての経験で、
あまりに唐突で、まだまだ馴染めずいる。
 
加えて、家族のことについては、
人よりもやや多めに悩まされてきた僕にとっては、
自分の親に対する思いと、親としてあるべき自分、
その狭間で、きちんと落とし前みたいなものもつけなくてはならなくて、
しんどい時間が増えているのかもしれない。
 
 
 
もし家族を持つことをしていなかったら、
こどもを持つという選択をしていなかったら、
今ここにあるクライシス(危機)は、
もっとマイルドなものだったんだろうかと、
よく脳裏に浮かんだりもする。
 
こんないい歳をしたおっさんでさえ、
こんなことを思っているんだから、
かなり若い年齢でこどもを生むことになった人たちは、
もっともっと、苛まれるに違いないし、
もっともっと苦しむに違いないなと思う。
 
そして、それがまれに起こる幼児虐待のような事件へと、
つながってしまうのかもしれない。
 
だから、このクライシスに対処するために、
個人として最大限努力していくのは当然なんだが、
国とか家族とか友人とか、
社会がもう少しだけサポートをしてくれるといいのになと思う。
 
もしかしたら、このミッドライフ・クライシスというものは、
ほんとうの意味で大人になるための洗礼なのかもしれない。
 
そこを乗り越えた真の大人たちを羨望しながら、
今、それと戦っている人たち、
これから戦うであろう人たち、
いっしょにがんばりましょう。
 

溢れる情報にさらされる日々で、なんか大事にしときたいなと思うこと。

f:id:tinmanbooks:20141207162249j:plain

いい年になってくると、だんだんと初めてやることが減っていって、
世の中のこともなんでもわかったような気になってくる。

自分のこととか、身の回りで起きることとか、世界のこととか、
大体のことはまあ、いつかのあの感じねという風にどれも対処していく。

茫然自失でおろおろすることなんてほとんどなくなって、
それが大人になっていくことではあるし、
いろんな経験をしてきたということの証でもあるんだろうけれど。

こどもの頃に感じていた得体のしれないものを前にして、
ビビったり、ワクワクしたりするような感情も、
あまり起こることもなくなっていく。

 

僕がよく読んでいる「はてなブックマーク」なんかを日々眺めていても、
「驚愕」やら「超絶」なんて言葉がたくさん溢れてるけれど、
残念ながら、驚いたり、心からわくわくしたりなんてほとんどない。

まあ、それらのほとんどは、記事に呼び込むための仕掛けのひとつなんだろうけれどね。

 

大人になればなるほど、面白いことなくなっていくな。
ワクワクすること減っていくな。
そんな感じをなんとなく抱きながら、
毎日の仕事に追われて忙しさの中に身を任せることで、
やりたいことよりも、やらなくちゃならないことを増やして、
日々追われて、疲れて、そこに意味はあるような気にさせて、
実際は退屈しそうな自分をごまかして過ごしたのかもしれない。
というか、今もそういう感じで過ごしてる。

 

でも、心がちょっとワクワクすることについて、
その上澄みの情報だけを飲んでわかった気になって、
また次のちょっとでもわくわくする情報をぼんやりさまよって探すんじゃなく、
少し手間をかけて深掘りしてみる。

もちろんインターネットを使って情報を集めるのもいいけれど、
少しだけ時間をかけて、本を買いに行ったり、借りに行ったり、
それについて詳しい人の話をどこかに聞きに行ったり。

 

そうすると、そこには無限の宇宙が広がっていることに気づかされる。

 

ちょっとワクワクする話の先には、
びっくりするくらいワクワクする話が広がってるんだ。当たり前だけど。

 

そうすると、そのなんとなくわかっていたようなテーマ、トピックについて、
底さえも窺えないくらい深く続いていたりする。
そして、それについて自分の無知さ加減に絶望的になったりもして。
でも、上澄みをなめてわかりきった気になって、
退屈な気分で生きてるよりは、夢中になれてよっぽっどいい。

 

流れていく情報にさらされているだけじゃ、
情報に踊らされてるだけになってしまうけれど、
流れていく情報を自分で泳いでいけば、
世界はもっともっと楽しくなるんだなって。

 

最近、そんなようなことがあって、そんなことを思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

誰かの感情に僕も揺さぶられてぐったり

f:id:tinmanbooks:20141021005543j:plain

普通に楽しく過ごしているのに、誰かのイライラとか、不安とか、怒りとかその辺の感情の突風に吹かれて、気持ちがざわざわして、落ち着かなくなることないだろうか?

僕は残念ながら、たまにあったりする。そして、今日もそんな日だったりする。

僕はただ普通になんとなく楽しく、一生懸命その日を過ごせていければ、それはまあだいたい満足できる。ものすごく楽しくなくてもいい代わりに、ものすごくがっかりしたり、嫌な気分になったりしたくない。

でも、僕のまわりにいる人の気持ちが揺さぶられて、その余波みたいなものが、僕の方にもざざっとやってきて、落ち着かなくさせられたりすると非常に困る。まあ、たいていはそんなに気にしないで過ごしていられるんだけれど、まれに誰かの苛立ちとか、不安とか、その辺が強く降りかかってくることがある。それは、ときどきすごくわかりにくくて、怒りのような顔をしていたり、なんでもないようなメールがたくさん来ることだったり、僕へのアドバイスのようだったり、いろんな顔をしている。でも、その強いコミュニケーションに、ときに平然と過ごしていられなくなる。

別に、苛立ちとか不安とか、悲しみとか怒りとか、誰だって人にシェアするし、僕だってする。人と人が強く繋がっているって感じられるのは、いつだってそういうときだって気がする。でも、感情の過剰なシェアや、誰かの気持ちを強く揺さぶる人たちは何を意図しているんだろうか。それはその人からのヘルプなんだろうか? 僕以外の誰かの場合は、その人を助けてあげたりするんだろうか?

少なくとも、僕の場合はひどく揺さぶられるし、一日、変な後味が残る。そういう人たちとのコミュニケーションが適切なんだろうかとかさえ、思ったりもする。

僕には僕の価値観があって、他人には他人の価値観がある。あたり前のことだ。すべては一致しない。僕の気持ちに共感できる部分を持ってくれる人は世界にいくらかいるだろうけれど、全部は難しい。だから、僕はその日の僕の気持ちに共感できる人に会えると、その日はなんだかうれしい気分になる。

僕の今日のこんな気持ちも全員にわかってもらえるとは思わないし、それをわかってもらえない人に伝え続けたりもしたくない。でも、伝わる人を見つけて、その人と繋がっているなって、気休めかも知れないけれど感じられてうれしい気分になるくらいがちょうどいい。

そんなことを思って、書いたりしていたら、少しだけ気持ちが落ち着いた感じがする。

あそぼう!

f:id:tinmanbooks:20141007214536j:plain

大人になると、いろんないいわけが多くなる。

なんで髪型変えたのかとか。なんでそのご飯を食べたのかとか。なんでその人とつきあってるのかとか。とかとか。

人と会うときもそんな気がする。

「おもしろい映画があるからさ」
「行きたいお店があるんだけど」
「相談があるんだけど」
「落ち込んでいるから」

なんか知らない、理由らしい理由を用意して。ほんとうに心に問いかけてみると別にそんなことはさして思っていなかったりしがちで。ただたんに会いたいだけだったり、話したいだけだったり。

なんか、それでいいんじゃないかなと思う。

子供のころはそんな前置きなんて要らずに、いつでもともだちに会って、遊べてた。いい大人になったって、それじゃダメなのかな?

「あそぼう!」

見る前に渡米

 f:id:tinmanbooks:20140923010825j:plain
 
僕がまだ大学生だった頃。
 
僕は一応、外国語を専攻していたこともあって、海外、とくにアメリカへの憧れが強くて、夏休みを利用して、友達とアメリカにいっしょに行こうという話になった。友人は高校時代に交換留学の形で渡米経験があったが、僕は渡米どころか、まったく初めての海外。
 
当時、好きでよく見ていたハリウッド映画の中では、連日、街中で銃撃戦が行われ、若者は全員ドラッグをきめてラリっている国だ。そこに旅行しようとする緊張感たるはなかった。今でこそ笑い話になるけれど、旅行前に遺書を書くべきかも、ほんとうに悩んだくらいビビってた。
 
でも、友達と大学の帰り道に相談に行った旅行会社で、女性社員は僕らの背中をあっさりと押してくれた。
「みんな行ってるから」
「行けば何とかなるって」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
大学の先輩のような感じに。
 
それは、その人の営業スタイルだったのかも知れないし、その人の好きな旅行のスタイルだったのかも知れないし、実際のところはよくわからないし、どっちでもいい。
 
その後押しに勇気づけられ、乗せられ過ぎた僕たちは、長距離列車のパスと、初日の宿泊先の予約だけで、アメリカを東から西へ横断することとなった。当時は今ほどインターネットに情報もあふれていなかったし、本や雑誌を中心に、事前に調べておくにもいろいろ限界もあった。だからこそ、僕らはまずは現地に行ってみるしかなくて、到着して、いろいろと聞いて、調べていくしかない旅は、とても刺激的でワクワクに満ちていた。
 
僕は今でも、あのときに感じた気持ち、もしくはそれ以上の気持ちを感じたくて、ちょこちょこと出かけているんだと思う。
 
便利すぎる世の中で、いろんなことを事前にたくさん調べて、ほぼほぼ概要もわかって何かをする。事前に映像や写真で、バーチャルに見てしまったものを、現実で追体験することは、本来の感動もずっとずっと小さくしてしまう。もしくは行った気になって、やった気になって、実際にはやらなくて本質がよくわかっていなかったり。
 
だから、ごちゃごちゃ考えたり、ごちゃごちゃシミュレーションばかりしてないで、まずは行ってみることから始めるのがいいんだと思う。もちろん、旅行だけの話でもなくて、なんでも、まずはやってみることから始まるんだなと思う。
 
だから、見る前に跳べ。